迷った時は遠慮なく

     うらさ 千手院


御館の乱・浦佐城の攻防

『大和町史』によると、上杉謙信の跡目相続争い、天正6年(1578)の御館の乱がおこると、上杉景勝は藪上荘の要衝にある浦佐城の守備を清水藤左衛門に命じた。南魚沼は上杉景勝や直江兼続の出身地であったから、景勝も兼続も関東に隣接するこの地をたのみとし、政景、景勝の直接譜代である上田衆(五十騎衆)の清水一族も決死の覚悟で浦佐城に立て籠もった。

籠城するときには茅葺きの屋根に土を塗って火矢を防ぎ、虎口(こぐち)や町口に曲目をつくり、敵の見通しをさえぎり、横矢や鉄砲の狭間(さま)を作った。要害の要所には地上6尺ほど、一間に5本ほどの柱を立てて柵を作り、棚木をつなぐ水平材を結び、見張りの井楼を立てた。

鐘、太鼓、法螺貝が用意され、それを合図に兵糧を運び入れ、武士も農民も、その家族も残らず城中に詰めた。
そのため浦佐城の郭は広く、数が多いのである。浦佐城の守備は武士だけでは手薄であったから農兵も徴集された。

小田原勢は大軍であったから、入れ替わり、立ち替わり攻撃を繰り返したが、城将清水藤左衛門が指揮するこの城は最後までもちこたえた。浦佐の城兵は、ときには城門を開いて討ってでることもあり、夕刻にいたり敵が退陣するとき追撃することもあり、地形地理にくらい小田原勢に夜討ちをかけることもあったという。



浦佐城主が民の健康を祈ったと伝わる薬師如来を祀る千手院本堂としだれ桜